2013年1月1日火曜日

「街頭行動の自由」集会をめぐる声明


「討論集会『街頭行動の自由を考える』」に、ご参加いただいたみなさんへ

 去る20121021日、私たち実行委員会は、一橋大学で「討論集会 『街頭行動の自由を考える』」を開催しました。参加いだいた皆さんにお礼申し上げます。

 この集会に先立って街頭の自由をめぐる問題がすでにネット上ではたびたび論争になっていました。そういう状況下で、討論を主体とする集会を企図することは、「罵声や野次」が飛び交う可能性を孕むものでした。しかし私たちはネットではなく、面と向かってやり取りすることを重視しました。どうしたら、本当の討議の場が作れるのか、それは規制や予定調和の中からは発見できないと考えたからです。実行委員会はそのような問題意識のもとに、本集会を異なる立場の意見を交差させる場とすべく努力し、最低限その目標は達成されたと考えています。

 そのような本集会の目標に照らして、第三部のフリートークで、パネラーのひとりに対してなされた実行委員会メンバーからの不規則発言をどう評価するのか、という問いが集会開催後の実行委員会で提起されました。このことをどう考えるかをめぐって、私たちはこの間討論を重ねてきました。一方で、「意見の異なるものと論争するときにこそ、相手への尊敬を忘れてはならない」「罵声や野次というものは他者の権利を踏みにじる」等の批判が本集会開催後に実行委員会の内外から寄せられました。

 たしかに、自らのプライドだけを守る言い訳として、他人への敬意を決定的に欠く者を、私たちはそもそも相手にすべきではありません。また発話をすくませる威迫の横行は、討議に真摯に向き合う者ならば決して許してはなりません。ネット空間でのやり取りがそうした傾向を帯びてしまうことへの危惧こそが、この集会の出発点にありました。その意味でこの発言が私たち実行委員会の意志一致の不十分性を露呈したものであることは明らかであり、この点は率直に認めたいと思います。

 だが他方で、ようやく絞り出された声を一義的に「罵声や野次」と評価する者の立ち姿にも、私たちは警戒を怠ってはならないと考えます。言葉は聞くことからしか始まりません。発言を形式に切り縮め、「聞き・話す」困難を直視せず避けることは、そう評価する者の側が理解する努力を放棄するものでしかありません。私たちはこうした傾向を相互批判を通して克服しなければならないと思います。

 この敬意と排除の岐路で「語り合う」ことは辛うじて成り立つと私たちは考えます。私たちは、本集会を第一歩と考えています。異なる闘いの論理を持つ人々が、互いを「罵声や野次」と切り捨てて終わるのではなく、「街頭の自由」をともに考えられる「仲間」になるために何が出来るのかを探りつつ、第2回以降の実行委員会へとつないでいこうと考えています。願わくば、これをお読みのみなさんにもご参加いただきたいと思います。

                                                               20121230

                                討論集会「街頭行動の自由を考える」実行委員会