2012年11月24日土曜日

個人的な中間報告 10月21日@一ツ橋大学 (平井 玄)


運動のあり方についての運動?

 「運動のあり方について考え/行動する運動」という奇妙なことを、またしても友人たちと始めてしまった。運動とは、ふつう特定の主張の周りに人が集うことから始められる。ところが、これは集団的な行為のあり方自体を問いながら動く。いわば「自己言及」する「運動の運動」なのである。「奇妙」というのはそういうことだ。一緒にことを始めた一人である鵜飼哲さんによれば、こんな性質の運動は世界にもあまり例がないらしい。「民主主義」を標榜する国では、デモ行進は支配者が遮る壁のギリギリまで行こうとする。それが「もう我慢できないよ」という意思の表明だからだ。しかしこの国では、人々の心の中にこそまず「壁」がある。つまり、この集まりが開かれた理由はこの社会に埋め込まれた「不自由さ」に深く根ざしているのである。

生きるための「リアリティ」を奪い返す

 きっかけは二つある。一つは、4年前の1026日に東京渋谷の東急デパート本店裏、松濤の奥まったところにある麻生首相(当時)の豪邸をお訪ねする「リアリティツアー」と名付けられた行動で3人が逮捕されたことである。この小さな「旅」のガイドは、フリーター全般労組の人たちが主に務めていた。
 1980年代以降の騒々しい渋谷しか知らない世代には、戦前この辺りが「山の手の奥座敷」だったことなど想像もつかないだろう。そこに向けて、(元気だった)地井武男さんのように「ちい散歩」をしてみたい。理由は、毎日のようにクライアントが変わるフリーター労働者には本当の「敵」が見えないからだ。闘おうとしても相手が誰か分からない。「階級」の時代なら見えた。「クライアント」では発注元の頂点がどこなのか、下からはまるで眼に入らないのである。死ぬまで不安定なフリーターはもう「カースト」だ。私たちをこき使うはるか上の最上級のカーストがどれほどの屋敷に住んでいるのか一度見学して、自分が天国と地獄の間のどの辺りをうろついているのか知りたい。「忠犬ハチ公」の街だから桜田門の番犬がついて来るだろう。それでもデモじゃないなら、犬を連れた散歩に警察の許可はいらないはずだ。
 ところが交差点でいきなり吠える。とたんに「公妨!逮捕」である(「タコオヤジ公安」のYouTubeを参照)。つまり筑豊の炭坑王の孫が寛ぐ大邸宅を拝見して、自分たちが生き惑う迷路のような「リアリティ」を解きほぐす権利さえ奪われているということだ。「リアリティ」とは、人が生きるために必要な心の恒常性を支える想像的な岩盤である(樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析』光文社新書)。
 行き先を示す紙製ボードを掲げたのが「違法」と渋谷署は言いつのった。それでは観光地のツアーガイドたちはみんな勾留されてしまうのか。ここから逆に、公安条例自体の成り立ちを疑う国家賠償請求の集団訴訟が始まっていた。

群衆の広場が一瞬の「議会」になる

 もう一つは、去年の9月11日に新宿で行われた「原発やめろ!!!!!」デモで12名が大量逮捕されたことである。これに抗議する知識人たちは「デモと広場のための共同声明」をすぐさま発表した(『脱原発とデモ──そして、民主主義』筑摩書房)。外国人特派員協会で会見も行われる。この声明がどれほど効果を上げたか見当もつかないが、結局のところ検察官たちは誰一人として起訴できなかったのである。反原発の動きが波打つ最初の山場で、騒乱罪から43年を経た新宿に帰ってきた2万人のカーニバルを牽制する「脱法的」な嫌がらせ逮捕なのは明白である。それでもデモ隊列を細切れにする分断は止まなかった。以来、警察による暴力的な妨害行為をなんとか抑止できないかと、何人かの声明参加者たちは考え続けていたのである。
 同じこの時、ギリシャではEU銀行団が締めつける街で暴動が続いていた。カイロのタハリール広場では大群衆が30年続いた独裁政権を倒す。有色人種の大統領が生まれても何も変わらないとウォール街の公園が占拠された。8割が反対なのに原発が再稼働されようとする国だけではない。世界中で議会制がまったく機能していないのである。巨大企業化した新聞やテレビによる「国民的リアリティ」の捏造、さらに「国民代表」を選ぶ議会選挙投票率が常に50%以下という、1819世紀に確立したメディア政治の環境が地殻ごと大きく揺らいでいることは誰の眼にも明らかだった。「街頭」が「緊急野外議会」の様相を帯びる瞬間が、2011年の地球上で何度も目撃された。

「地震の神」が「菊の呪い」を揺るがす

 そこに、この列島特有の条件が重なる。この部分は私個人の考えだが、大地の動乱はこの列島に取り憑いた「菊の呪い」を底深く揺り動かしたと思う。
 古代の列島社会で、まだ形を成していない王権神話と地震神話は二匹の蛇のように絡み合い、激しく争っていたという。このことが、原発震災の揺さぶりを受けた最近の文理融合研究の進展の中で明らかになってきた。少なくとも、大地と社会の動乱がシンクロナイズする危機が歴史上で何度も訪れたのは間違いないようだ(奈良・平安の王権に祟る大地震や火山噴火については保立道久『歴史のなかの大地動乱』を、幕末から大正大震災に至るまでについては石橋克彦『大地動乱の時代』ともに岩波新書)。
 地震噴火が異族の動乱と同期する「祟り神」の怒りをなんとか慰撫しようと、震源地や噴火口を祀って社を建てる。そのために「菊の王」たちは渡来仏教と交わり、その超越的な力を借りたのである。さらに明治以降は、大逆罪、治安維持法、破防法、騒乱罪、公安条例という「非常事態」の例外条項が「菊の栄え」を支えてきたといえる。つまり、世界に冠たる「街頭の不自由」が内面的な「呪い」の持続に貢献してきたのは疑いないだろう。昨年3月以降、この呪縛力に翳りが差す一瞬が訪れたのは確かだ。
 内外のこうした大きな変動が、911日以降は全面排除や大量検挙ではなく祭りを交通整理するような雑踏規制方針を当局に選択させるのである。そして、いわば「祟り神を祀る」のとは裏腹に、「脱原発」以外の「沖縄反基地」や「反天皇制」を掲げるデモや集会への国家中毒者たちによる襲撃、つまり「菊の呪い」は強化されたのである。反原発のデモは「動乱する祭り」なのか、それとも「慰撫する祀り」なのか。「呪い」は果たして解けるのか?──二つの力のせめぎ合いが続いていると、官邸前と靖國前、3キロしか離れていない二つの路上を訪れながら、今私は考えている。

ネットの不自由から語り合う自由へ

 こうして「リアリティツアー」国家賠償裁判の原告たちと「共同声明」の参加者たち、二つの問題意識を持ったグループが合流するところから今回の集まりが準備されていく。
 集会へ向けた話し合いが進むその中で、紫陽花の咲く梅雨から盛夏にかけて「再稼働阻止」一点に絞り込んだ永田町の首相官邸前行動が多くの人を集め始める。大飯原発が再稼働されようとする中で、それは膨れ上がった。黄色いテープによる自主規制のラインを越えて車道に人波が溢れた6月29日の最初のピークに私も立ち会うことになる。発表された「20万人」はともかく、数万人がそこにいたのは確かだ。と同時に、多くの参加者たちが「なんでそこまで自主規制なの?」と感じていたことも確かだったと思う。
 そんなことを言われても、官邸前行動を呼びかけた若い人たちには寝耳に水といったところだろう。まして彼らの大半は「国家」という阿片に酔う人たちではない。これとは別に、四谷の韓国文化センターや麻布の中国大使館へ向かい「島騒ぎ」に酔い痴れる人たちが現れる。怪鳥オスプレイも列島上空から沖縄へと飛び回る。こういう紫陽花と菊が季節外れに咲き乱れる事態に対して、もっとクレバーな対処法はないのだろうか?
 かつて1970年代に学生運動が黄昏れる中でさまざまな「シングル・イシュー」にこだわることは、個別テーマに「普遍」の深みを掘り進んで地下に根を張ることだった。公害や基地、地域や中小工場、部落や寄せ場、裁判支援や第3世界連帯、そして原発。ところが、官邸前で聞かせられる少数の「菊」が混じったシングル・イシューの連呼は、一つの声に封じ込めることにならないか? そんな疑問にツイッターの雑言が返ってくる。いわくネサヨ(根の暗い左翼)、旧世代のジジィババァなどなど、寂しい罵倒の連射芸。140字で短詩文藝の伝統は生かせても条理は尽くせない。考えるとは蛇行することだ。生きて死ぬことも同じである。
 だからこそ、この捩じれた情勢の中で「街頭行動の自由と不自由」を語ろう。ともかく顔を合わせて百家争鳴の場を──と、この集会が呼びかけられた。脱原発デモの現場で参与観察を続け、反原連に法的なアドバイスをする若手政治学者の木下ちがやさん、デモで国家中毒者の激しい攻撃を受け続ける反天皇制運動連絡会の桜井大子さん、官邸前にも反靖国デモにも自ら足を運ぶ編集者の太田昌国さん、3人の報告が第1部である。ここをスタート地点にして瀟洒な街の大学講堂を揺らすように議論は沸いたのである。 

路上の生とニーナ・シモンの歌

「全国的な広がり、様々な層の「化学合成」の中でこそ官邸前を見るべき」と木下さんは言う。「不自由の極みの反靖国行動に集まる200人の関係の積み重ねが自由を創り出す」と桜井さんが言葉を繋ぐ。太田さんは「被害者意識やoccupy99%というマジョリティの言葉をも疑う歴史観を」と結んでくれた。
 とはいえ、ハバーマスが言う「市民的対話」は学府の中でさえなかなか難しい。平等な「市民」とはそこに「いる」者ではなく、生成途上の「なる」者だとしても、なんらかの「民衆革命」という共同体験が蓄積されていない場所では、その方向が共有されているとは限らないからだ。議論の応酬はどうしても「菊の呪い」に引きずられる。この齟齬ゆえ主催者側から一瞬ヤジが飛んでしまったことの非を、私も「語り合う自由」を謳う会の司会者として認めたい。
 必要なのは、紫陽花の種を撒き散らして見たこともない雑種を増やし、地中に張られた菊の根を枯らしていくための論争である。この点で、メルトダウン直後に全員が低線量被ばくという「経済的核兵器」の攻撃を受けたはずの首都圏の動きは、本当のところ「被害者運動」でさえないのでは、という貴重な論点も出された。
 今のところまだ無痛のこうした「痛み」に人々の体が敏感に反応していれば「再稼働反対」だけではすまないはず。数百万人単位の東京電力訴訟団が現れ、全面的な料金不払い運動や施設財産の占拠が出現するだろう。新しい言葉が現れ、必要に応じて行動を自制する別の方法も発明されるはずである。
 その意味では、方向は第2部の「映像サンプリング」に予感されていたのではないか。そのラストシーンはこうである。80年代の山谷の真冬、路地で日雇い労働者たちが焚き火をする。そこから立ち上る煤煙りが脇の道路標識を真黒く汚し、表示を見えなくする。路地さえ統治する「禁止条項」を、生きようと群がる意志が消してしまうのである。映画『山谷 やられたらやりかえせ』の一シーンである。そこにニーナ・シモンの「私にはなにもない」というソウルフルな歌が重ねられた。おそらく60年代ニューヨーク・ハーレムの広場で「ジャズモービル」という催しで黒人音楽家たちが無料で演奏した際の映像である。「私には金も家も、何もない。でもソウル(魂)がある」。この低い声は、他でもない和田アキ子の歌声に引き継がれたのである。奇妙な「運動の運動」はもう少し続けられるだろう。

2012年11月4日日曜日

第一回討論集会報告 (北野誉・反天皇制運動連絡会)

一〇月二一日、一橋大学で「討論集会 街頭行動の自由を考える」がもたれた。主催は同実行委員会。三部構成で、第1部はパネルディスカッション、第2部はサンプリング映像と主催者のコメント、第3部がフリートークとなかなか多彩なつくりだった。
  この集会のテーマ設定やパネリストの人選には、ある種の「切実」さのようなものがあったと言っていい。毎週金曜日の首相官邸前行動をめぐる対立的な言説が、ネット中心に飛びかっているのは周知の事実。そこでは主催者による警察への協力や「日の丸」、「シングルイシュー」の名による「統制」が批判され、その批判者が「警察との無用の対立」を煽っていると批判される。そこには明らかな齟齬がある。
  第1部の発言者は木下ちがやさん、桜井大子(反天連の仲間なので敬称略)、太田昌国さん。木下さんは官邸前行動の「主催者」サイドに立っていると目されているが、桜井も太田さんも、批判は持ちつつも、官邸前行動はそれとして評価しているはず。それはおそらく、この日の集会を主催した多くの人にとっても前提だろう。拡大する運動の中で現われてきたさまざまな問題を、運動の「作風」の問題として話しあう場をもつこと、それを通じて可能性をさぐり、相互の関係性を少しでも風通しのよいものとしていくことが、「街頭行動の自由」一般について語ること以上に意識されていたと思う。
  二〇一一年から一二年にかけて、世界的に「民意」が沸騰する時間に入った、反原発運動もその流れにあるとする木下さんは、現在のデモを構成しているのは、三〇代・四〇代の比較的若いが「不安定」な層、反原発を含めた旧来の社会運動に参加してきたような中高年層、環境問題などのNGOの三層であるという。潜在的にあったこれらの動きが交叉し、顕在化する形で、六月から七月にかけて、「自由な行動」が一気に広がった。そしてそれは首都圏から「地域」へと広がっている。一つの地点だけに目を奪われるべきではない。
  桜井は、官邸前の「自由」と比較して、8・15反「靖国」行動の「不自由」について述べた。右翼を利用する警察への申し入れなど「自由のための条件」を少しでも広げるために努力はしているが、そういう自由を得るための行動の積み重ねのなかでしか、自由は手にしえないと発言。
  太田さんは、社会運動の中の少数派の問題、「シングルイシュー」の運動が七〇年代にどのように作り出され、それはどんな意味を持っていたのか、また、運動の中でのスローガン(ことば)と対話のありかたなどについて論じた。さらに、運動の中で運動それ自体が変貌していく可能性をも示唆した。
  パネリスト相互の討論、映像とフリートークも、端緒的なものであったが、とても考えさせられるものだった。「シングルイシュー」概念の違い、被害者意識が生み出す運動的な強さと限界、「生活保守」と「生命保守」、現場における「解放感」、運動のなかで取り落とされてきたもの、とりわけ福島で孤立させられている声とどうつながるか、など論点は多岐にわたった。
  スペースの都合で二点だけ。映像の中に「飼いならされた羊」「一匹、二匹と柵をのりこえはじめた」という表現があって、それを木下さんは「(目覚めていない)大衆/(先鋭的な)前衛」図式であると批判したが、むしろ羊とは、この「市民社会的秩序」を内面化し、あえて柵から飛び出そうとしない身体に馴致されてしまった全ての私たちのことではないのか。そして柵を越えるとは、映像にあった山谷の焚き火に象徴される生活の場、あるいはハプニング演劇や占拠など、まったく異なる街頭の使い方があるということへの誘いではなかったのか。
  もう一点、フリートークのなかで、反原発デモの被弾圧当該から、官邸前行動の「主催者」が救援に非協力的であったという具体的な批判があり、木下さんがこれに応答するという場面があった。そこでは齟齬が直接ぶつかりあっていた。このとき司会の鵜飼哲さんが、個別事象の批判ではなく会場全体で共有すべき問題へとひらいていくべく努力を重ねていた姿が、この集まりの基本姿勢を表わすものとして印象的だった。ここでは集会の主催者の一人がパネリストにヤジを飛ばす(これはアウトだろう)という場面もあった。だが、そういった点も含めて、議論はやっと入り口だな、というのが正直な実感だ。しかし、そのことにおいてこそ貴重な集まりだったといえるだろう。
 (北野誉・反天皇制運動連絡会)

●東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議『支援連ニュース』2012年10月27日号